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インド瞑想リトリート

インドのリトリートの話をアップしなければと思いつつ、
なかなか、PCの前に座る気にならず(無事に修理を終えて帰ってきましたが、データがちょっと無くなっている。)
昨夜空を見上げたら、インドでのリトリートでの初日に見上げた月と同じ大きさの月が空に昇っていて、
あぁ、もうひとまわりしてしまったのだ と何となく時の過ぎゆくことが疎ましくも思えるのです。

リトリートのことをなかなか書けないもう一つの理由は、
通常の3次元とは違う世界のことを、どのように表現したら伝わっていくのか、伝わるのか?
とも考えるのです。

ですから、読むときにはそれが額面通りのものではなく、
恐らく、経験する人の数だけ、その経験があること、あくまで私のフィルターを通した見方であることを踏まえて読んでいただきたいと思います。

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チネイザン3期の修了試験、修了式があったため、
旅友の2人とは2日遅れで出発。
しかも、直行便まで待つとリトリートには間に合わないので、香港経由。
あきれるほど時間をかけてニューデリーへ到着後、
二人の待つホテルにたどり着き、あまりの素敵なホテルに感動する間もなく早朝にコルベット・パークに向けて出発。
約6時間かけてチャーターした車に乗って、ビルの立ち並ぶ喧噪の街、豚の親子や猿の親子など色々な親子(子どもってどうしてどの動物でも可愛いのだろう!)が横切るちょっと田舎の町、を通り抜け「スカイラーク」という名のホテルというかドライブインでトイレ休憩プラス朝食。
インドでの初めての食事なので心配しつつ口に入れたが、どれもおいしかった。
その後、モクモクと煙が立ち上る煙突の煙にいぶされた街を通りぬけ、最終地点の近くでようやく空気に透明感が戻ってくる。
上り坂が続き、山が目の前に広がってくるとコルベット・パークだ。
象が当たり前のように道の横にいるので、作りものかと思ってしまう。
Tarangi Resort着。
ガンジス川の支流であるコシ川のほとりにあるのですぐに川の流れの力強い音が耳に入ってくる。
なぜなら、そのホテルはリトリート貸し切りなので沈黙のリトリートゆえに自然の音以外は基本聞こえないのだ。
発つ前日に、厳しいリトリートの指示が送られてきた。それは12項目にも及ぶ。
このリトリートでは人と目を合わせてはいけない。
言葉を交わしてもいけない。もちろん電子機器も禁止。
旅友とは早々に部屋を別々にされ、沈黙の中昼食を取る。
当たり前のようにベジ料理。
しかし、どこで食べるベジ料理よりもおいしく、ものすごくホッとする。
常に、常備してあるタンク入りのアツアツのチャイやジンジャー・ウォーターもうれしい。
部屋に戻ると、しっとりと寒い。「なぜ乾燥しているのに寒いのだろうか?」とルームメートのメキシコ人の女性に訴えると、広い部屋にかかわらず唯一の暖房機デロンギの側のベッドを勧めてくれるのでありがたく申し出を受ける。
シャワーに入ろうとすると、水しか出ず、二人続けてのシャワーは困難なことに気づく。
寒さは、このリトリートで唯一つらかったこと。
夜はホカロンを体に貼り、ヒートテックを着てパジャマを着ても震えちゃうくらい寒い。
しかし、施設内はリトリート関係者と従業員しかいないし、喋っちゃいけないから自然の音にあふれ、
目の前には大きな川と山並みが広がり、本当に素晴らしいところ。
日が落ちてくると、ところどころに灯りがともりさらに幻想的な世界に

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早速、リトリート開始前夜から瞑想。
時間の五分前には瞑想に入れる状態で座っていないければいけない。
遅れてくる者は入ってはいけないのだ。
だから、彼が入ってきてもじっくりとその姿を見ることはかなわず、ちらりと薄目を開けて見てみる。
10年前の写真からは想像もつかない貫禄。
別人のようだ。
山のように大きくなっている。
身体もエネルギーも。
「来たな~。」という気配がしたあたりから、あたり一面のエネルギーが広がり始める。
当日は満月まであと一日のあたりだったのだが、
私は、月まで届きそうなほど大きくなるのを感じる。
まるで、アリスが「私を食べて」というクッキーを食べてみるみる大きくなったかのように。
そして、大きくなった私のエネルギー体の中には様々な私の過ごしてきた過去の人生が繰り広げられている。
まるでテレビでチャンネルを選ぶかの如くいくつもの人生が手の取るように広がっていく。
以前見た映画の中で、主人公が追っていた玉が映像の記憶装置でそれが開くと次々と映像が繰り広げられるようなそんなはっきりとした感じだ。
私は、催眠療法を仕事にしているけれども、自分の前世には全く興味がなく、頭痛のときくらいしか見て見ようとしたこともなかったけれども、ここまではっきりと繰り広げられると「そうなのかもね。」と思わずにはいられなかった。
ファルーカ(エジプトの風で動く帆船)にのってナイル川を横切ろうとする若者の人生では頬に受ける風や水しぶきを味わい、アフリカでの開拓民時代には、焼けつくような日差しと乾燥した大地を味わい、中国での修行僧の時代には、自分自身が戒律という箱の中にとらわれ息つくこともできない苦しさを味わい、また、色とりどりの花が咲く台地でただ自然を楽しむだけの人生を味わい、それ以外にもジャラジャラとおつりが出そうなくらいの様々な人生が繰り広げられている。
2nd の瞑想では、うって変わって下に下に吸い込まれていくようなエネルギーに圧倒される。
下には別の次元が広がっているような感じで、確かにそこに存在しているものがある。
しかし、これを3次元の言葉で説明してしまうことがなんとも薄っぺらいものになってしまう。
10年近く前に彼の本を読み、見よう見まねで瞑想をして、この状態に近いものすごいエネルギーの世界に圧倒された後、「これは何なのだろう?」とどこに聞くともなく聞いていた時に、初めて私はこの物質界にはない声を聞いた。それがこのブログの名前にもなっている「イシスの息吹。」という言葉だった。
それから、私の見えない世界との交流が始まった。

初日のクラス前の瞑想からこんな状態になり、圧倒される。
翌日からは5時起床。5時半から瞑想が夜の9時まで続き、10時消灯
というスケジュールが始まる。
別の部屋に帰った旅友の身を案じながらも、眠りに就く。

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夜が明ける前から木魚のような楽器(?)で朝を告げる音が聞こえてくる。
瞑想開始10分前にも必ずこの音が聞こえてくる。
この音がトラウマを呼び起こすという参加者もいるくらい、この音をよく聞いた。
まだ真っ暗な中、瞑想室に向かい眼ボケ眼で歩いていく。
部屋からそこまでは3分ほどの距離だと思うのだが、寒くてホカロン、ヒートテック、セーター、ポンチョ、ダウンの重ね着。
ホールの中にはモクモクお香が焚かれている。
煙草の煙とこの煙と身体への影響は変わるものであろうか? と考えてしまうほどモクモクしている。

1st Meditation
薄暗い中誰からともなく瞑想に入っていく、暫くすると彼が入ってきてまたそれまでの空気感を一掃する。
今朝は、どんなところに行くのだろうと身を委ねている。
様々な方向にエネルギーが広がっていく。
そののちに下へ下へと降りていく。 言いようのない安心感。
なぜだか涙が蛇口をひねったかのように出続ける。
途中、夜が明けてきて朝日がホールに差し込んでくる。
だんだんと光が近付いてくるのを感じ、やがてその光が私の閉じた瞼を照らしていく。
太陽の光と、私の中にある光がリンクしていき、どちらの光かがわからなくなる 何とも言えない至福の時だ。
朝日の中での毎朝の瞑想は本当にすがすがしく気持のよいものだった。

2nd
6チャクラへの刺激の後に3チャクラのコードのもつれを解消する作業が続く。
果てしなくもつれている部分(糸が絡まる具合)
は容赦なくカット。
最終的にスシュムナーの詰まりを解消する作業まで続く。
自我は、ところどころで抵抗を見せバウンダリーを築こうとするが、あまりのエネルギーにその都度無駄な抵抗だということに諦め、巧妙な自我も手を緩めていく。

3rd
次は、ハートがドキドキしてきて得体のしれない量のエネルギーがそれを取り巻き、次第に流れ込んでくる。
ひたすら涙があふれる。 
何が何だか分からないが、無限に広がる感じがする。

ウォーキングメディテーション
歩きながら瞑想状態を保つ。
今度は、ただ身体の痛みだけを感じる。

4th
次は、エネルギーがどこに行くのだろう?
上下のチャクラにパワフルにエネルギーが流れ込む。そのエネルギーを追っていく。
どこまでもどこまでも果てしなく広がっていく。

lunch
人がいるけれども、目を合わせず、話もしない。
一人で居ることを尊重されている空間。
この辺りから、その恩恵を感じる。
目を合わせるということは、無意識にバウンダリーを築くことであり、話をすることも無意識にバウンダリーを築くことなんだなぁ としみじみ感じる。
目を合わせず、話をしないということの心地よさ自由さを生まれて初めて味わうかも。
自分の鎧を取る方向性に没頭できる環境に感謝した。
目の前に広がる川の流れと山並み、流れる雲。
その中で、ニンジンを自分がかじる音を聞きながら、
「私はどこにいるんだろう?」とふと我に返ったりもする。

この辺りから、足だけでなく体中が痛くなって集中しようにもなかなか難しくなる。
深いところに入っていくが、身体の痛みで委ねきることができない。
これで、リトリートはもつのだろうか? と一抹の不安を覚える。
しかし、身体の痛みとともに 一日中瞑想のエネルギーの中に浸ることによって、
より深い世界に入っているのがわかる。
身体の痛みは、深いところに入るときに必ず起こる。
これも自我の抵抗の現れ。

5th
言いようのない安心感の中に身を置いていると、
彼がいくつも上の次元に存在しているのを感じる。
40人近い参加者それぞれのもとにエネルギー体があるような感じだろうか。
それぞれに応じたエネルギーが感じられる。
無数の顕現?
覚者の臨在パワーなのかなぁ。

6th
ハートが痛いほど開く。
ハートを開くとは、自らが意識的に開くものではなく、
花が綻ぶように開いていくものなのだと改めて実感。

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1st
松果体あたりに強いエネルギーを感じ、後ろに倒れそうになる。
無意識に抵抗していたが、
抵抗に気づき委ね始めると通路のように中に入ってくる。
途中、「火の世界」に入る。
当初「火だ!なぜ? どうしよう?」と思うのだが、
「いやいや、私は瞑想をしているのだから火の中にいるはずがない。これはアストラルの中だから、手放そう。」
と思うと、「火の世界」は消えた。
ホッとする間もなく次は「水の世界」
「息ができない。と一瞬思うのだが、いやいやこれもアストラル。心穏やかにしていよう。」と思うと消える。
次は「油の中」さすがに気持ちが悪い。「なぜ油?」と思うのだが、この辺りからは気持も揺らがず手放す。
次はなぜだか「スパイス。」これはヒリヒリする。手放す。
アストラルの世界をたっぷりと味わい、そのまま先に進んでいく。
まるで映画の冒険物語みたい。
そのまま通路を進むと、明るい場所に出る。
ストーンサークルがありそうな自然にあふれる場所。
円形にくりぬかれたようにぽっかりと空き地になっている真中に椅子がある。
そこに座るのだなぁ と思って座り
そのまま委ね続けると と声が響いてくる。
私の中に浮かぶ疑問に対しての答えが返ってくる。

2nd
ホールに彼が近付く気配だけでエネルギーがシフトする。
ハートがドキドキしてきて 何かが流れ込んでくる。
こんこんと尽きることなく流れ込んでくる。
途中「もう結構です。」といっても
さらにこんこんと流れ込んでくる。
「もう苦しい。」と閉じようとするが、それでもこんこんと流れ続ける。
容赦なく流れ込んでくる。
『神の愛』だ。
私が生まれてきてからずっとずっと焦がれてきた『神の愛』が無尽蔵に流れ込んでくる。
息をしても、息を止めても、何をしようとも流れ込んでくる。
まるで消防車のホースから永遠に水を放射されるかの如く、ものすごい勢いだし、
止まる気配もない。
私は、次第に抵抗をやめる。
その中に溺れてゆく。
それでも尽きることなく、『神の愛』は流れ続ける。
もはや私は無抵抗になる。
ただその中に存在する。
『神の愛』のない所などない。
それほどにこんこんと永遠に『神の愛』は流れ続ける。
ただただそれに身を任せ委ねる・
涙もそれと同じように尽きることなく流れを止めようもない。
『神の愛』は尽きることなくいたるところに流れ込み、
「尽きることなどない。」ということを示してくれる。
私はただその中に溶け込んでゆく。
今まで私が感じていた愛も神も、ほんの入り口の限定された愛にすぎなかった。
なぜなら、すべては神の愛でできているのだ。

ウォーキングメディテーション
自然の中を歩く。
あらゆるところが神の愛にあふれている。
私は、その中を泳ぐように歩いてゆく。
ただその中に存在するだけ。
だから、身体の痛みももう感じない。

3rd
下垂体、松果体のあたりの作業が始まる。
身体をまっすぐにしていられないほどの量のエネルギーが流れ込んできての作業。
小さいころから目を閉じると見えていた「ホルスの目」がまた蘇ってきた。
次に2チャクラへエネルギーが流れ込んでくる。
得も言われぬ体感が細胞の一つ一つに伝わってくる。
それが全身の中でのハーモニーとなり得も言われぬ快感に包まれる。
自らの中でそれは生まれ、流されていくのだということを教えられる。
2チャクラのテーマ。
すべての偶然とも思える出来事がすべてここへと導かれるpath(道)だった、と告げられる。

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しかし、昼食時には再度自我が暴れだし、
言いようのない恐怖感と痛みに気分が悪くなり、食べられない。
「このリトリートを最後まで乗り切ることができるだろうか?」と弱気になる。
だいたい、こんなに健康的な場所で健康的な食事をして瞑想をして、「良い人」になったらどうしよう?
と心配する。

4th
昼休みの気分の悪さから抜けきらないままに座っていると、
まずやさしいエネルギーがハートに流れ込んでくる。
下垂体のあたりに強い刺激を感じ、暫くすると、
2つ前の前世だという明の時代の中医師が出てきて私の過去の説明を始める。
明王朝、皇帝専属の医院の話など、世界史の授業のようだ。
ただ、脈診を取るだけにいる人や舌の具合を見るだけにいる人、皇帝を取り巻く人々。
でも、信頼って難しい。
どんなに地位があろうとも、お金があろうとも、人を従わせても、真の信頼をもつことは自分を信じるしかない事を傾聴する。
1800年代のロシア帝国時代の宮廷と薔薇十字軍とおかかえ魔術師の話も面白い。
見えない力と権力。
いつの時代でもこれは大きなテーマ。
さらに遡り、エジプトでも何回か巫女や神官であり、
今の人生でもなじみ深いエネルギーや手法を懐かしむ。
この辺りから神とのつながりをテーマに転生を繰り返した。
しかし、生活のために能力を使ったり、生きるための術であることが多く、
自由な環境にはなかった。
今生では、生活のためでも限られた環境でもなく、やっと自由に神との探求に向き合うことができるようになった。
3~4000年いやそれ以上待ったのだから、そろそろ委ねなさい。
と言われ、「ふーん」と思いつつ、半分は本当ですか? と思う。

5th
前の瞑想のことをつらつらと考え、集中できず。

6th
集中していないと、実際の彼がすーっとやってきてエネルギー調整される。
バレていたか、やるな。
と思う。
まだまだ3,4千年の重みがわかっていない。

とにかく、これだ!
と掴めた感があると、次には「駄目だ。」とか「身体がいたい。」とか「本当か?」などと自我が顔を出し綱引き状態の時だった。

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もう4日目、いやまだ4日目?
1st
うちなる静けさの中で早朝の瞑想が始まる。
(何故だか駄目だ~。の後には静寂が訪れる。)
彼のガイダンスももはや耳触り。
ただただ「ここ」
ゆるぎない場所。
あらゆるところにある安心感。
ゆるぎなさの中に溶け込む。

「6チャクラに波動を合わせたときに聞こえてくる この次元の周波数ではとらえることができない音や物質のぐるっとひっくり返った裏側に流れるような、美しい響き」と とても似ている崇高で美しい響きが広がる。

2nd
ガイダンスメディテーションだが、深い所に行きそうになると、実際の声が聞こえてくるのが邪魔になって引き戻される。
ウォーキングメディテーションの後に気分が変わり、
明け渡すことが容易にできるようになる。
ずっと、溶けていく。
氷が溶けてなくなるように、身体も意識も溶けてゆく。
後に残るものは、常にここにあるもの。
どこにでも。
だから、認識しようと思えばできるのだけれども、どこにでもあるし自我というヴェールで私たちが覆われているから気付かない ほどあらゆるところにあるもの。
だから、それをこのような言葉にする時には 何段階も戻さないと言葉にはならない。

3rd
愛が私の構成要素になっていようとは!
と思うほどにパワフルな愛のエネルギーが流れる。
エネルギーがシフトしてゆく、
「山本ユキ」という存在の比重がどんどん薄れてゆく。
肉体の境界線の感覚も薄れてゆく。

ウォーキングメディテーション
自分の感覚が薄れ、より大きな私の感覚が広がるなか
自然の中を歩く。
空を見上げて「鳥だなぁ。」と思うか思わないうちに「鳥の視点」でここに存在している。
上から私たちをみると蟻の行列みたいだ。
変なことをしている。
でも、ただ風に乗って羽を広げるのはなんと心地よいのだろう。
川の流れの中に獲物を見つけるのは見つけようとするのではなく、
自然に何かが反応するのだ。
「山」に目を向ければ「山」となり存在する。
「川」に目を向ければ「川」として存在する。
山も川もただそこにあるのではなく、
この波動の喜びに充ちあふれながらダンスするように存在している、
微細な喜びも壮大な喜びもすべて味わいつくしている。
「草」の上を歩けば「草」として存在する。
すべてのものが同じように鼓動している段階があり、
それはそれは言葉では言い尽くせない。
ただの物なんて一つもなく、生きている。
そして、この瞬間を味わいつくし法悦の中にいる。
どんどん広がっていく。
尽きることなく広がっていく。
凄いなぁ~。 
と単純に感動する。

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巧妙なエゴは、それでもまだ私を引き戻そうとする。
ルームメイトの女性が具合が悪そうにしているのに、部屋を出てきてしまった罪悪感に瞑想の間中ずーっと苛まれる。
私の位置からは、彼女の位置を確認することができず、
「部屋に戻ってみようかしら?」などと落ち着かない。
「瞑想をするより、具合が悪い人のサポートをするほうが大切じゃない?」
しかし、瞑想が終わってみると、彼女はしっかりと瞑想に入っていた。
正義感まで持ち出してくる自我の巧妙さ 
凄いなぁ。

パズルが合うように波動がゆるぎなくはまる時、深いところまで入っていかれる。
大地を踏みして歩いていると、得も言われぬ調和の中に存在して
歩くことすらいちいち感動する。

ハートの中は繊細で羽毛のようでありながら、
傷を負っても、そこには分離はない。
ビーズとか、スライムとか、粒子とか、羽毛とか、分けても戻ってしまうような、
分離したようでいても、温かく周りから包み込まれて元に戻る。
やわらかく子宮のなかにいるよう。
もうひとつ奥にある私のハートだ。

このころからメモを書きとめる事もあやしくなり、
ちょっと判読不明。

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座った途端に涙があふれる。
ポロポロと止めようもない。
深い安心感の中でハートの中に入っていくと、
なぜだか「私の質」がこれでOKだと感じる。
私の質とは?
肉体を取り去った後に残るようなものに感じる。
エネルギーの質。
しなやかさ、たおやかさ、包み込むような質、力強さ。
その中を通り過ぎて更に中に入っていく。
吸収されるような感覚が広がり、
身体の感覚が消え、広がっていく。
すべてがつながり慈悲の中にあるのを感じる。

たっぷりとした恩寵のなか、
時間を過ごせたことは何とも贅沢で、貴重なものだったか。
「こんな幸せに充ち溢れたときを過ごすことができるなんて、私は前世で何か良いことをしたのかもしれない・・・」
と自分のラッキーさに途方に暮れるほどシアワセ。

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個人面談。
10年来の思いがあるので、
ウキウキしながら「写真撮っちゃおうかしら?」
等と陽気に部屋に入ると、
そんな雰囲気ではない・・・

まず、目を合わせはいけない日々だったので、
彼とも目をあわせてよいものかどうなのか?
しかし、正面に座るように促され、
まっすぐ彼を見るのだが、
まぶしくてどこに視線をやったらよいのかわからない。
「ま、まぶしい!後光とは後ろにあるものではなく、頭を取り巻くものなのね~。」
と感心していると、
「ステートオブプレゼンスはどうなっている?」と鋭く指摘され、忘れていたことに気づく。
この道は、
「真剣な魂の選択。」なのだ。
この選択を東京に帰ってからも続けることができるか?
その時間を取ることはできるのか?
とお説教され、とても「写真を!」とは言えない・・・
ステートオブプレゼンスの結晶化をして出直してこい! by anadi
(くらい浮かれて行った私には聞こえた。)
エネルギーワークをしてもらって、部屋を出る。

しかし、私は負けず嫌いなので、恐ろしいほどの集中力でその瞬間からステートオブプレゼンスの結晶化に取り組む。
その日は一睡もせずステートオブプレゼンスの結晶化をし、朝を迎えた。
翌日も、ずっとずっとステートオブプレゼンスの結晶化を休むことなく、クラクラしても続けた。
一日眠さも感じないほどに取り組む。
(私は、卵巣呼吸も一時も休まず続け、体重を増減させた前歴がある。)

昼食後、歩いていると向こうからニコニコしたおじさんが私を覗き込んでくるので、
「ッチ!目を合わせてはいけないのよ!」と下を向いて避けようとすると、
またしつこく覗き込んでくるので、誰かと思うと彼だった。
「ステートオブプレゼンスにいる?」というので、
「モチロン!!!」と言うと、フムフムと確かめて去って行った。


二日目になると、結晶化の意味がわかってくる。
ゆるぎなくそこに居続けることができる。
自我の台頭ももはや風前の灯となる。
身体の痛みすらなくなる。
ここはしっかりとぬかりなくやる! ということは大きなポイントかも。

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ふと河の流れに耳を傾けながらお昼を食べていると、
「私は彼になれるわけでもない。」
事をふと思う。
私は、私であり、
誰の質にもなれない。
自分自身の質を通っていかなければ、
そこには辿り着けない。
私の内には私しかない私があり、
その中に神聖へと続く扉がある。
それは他の人を真似て辿り着くものではなく、
自分が自分に許して初めて辿り着けるような気がする。
誰かの許可が必要なのではなく、自分が許し委ねること。
そして、その向こう側は永遠に広がるすべてが一体となる「それ」なんだなぁ。 
としみじみとニンジンを齧る。
(いろいろなおいしいお料理が出たけれど、一番おいしかったのがお庭で採れたにんじん。これにレモンを絞って齧るとフルーツのように甘くておいしい。今でもあの味を思い出してニンジンを探し回っているけれども、あの味わいはないなぁ。)
帰ってから友人にこのことを伝えたところ、
「本物だね。
本物のグルは、自分に追従させるのではなく「あなたの中にあるグル。」に気付かせることができる人だ。」
とのコメント。
それを、エネルギーで伝えることができるのは素敵。

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ステートオブプレゼンスにとにかく集中!

ふと部屋に帰って鏡と見ると、
肉体の外に自分の枠組みが出ている。
これは、私が五感を超えたところを認識する時の状態にとても似ている。
この事が、ステートオブプレゼンスを理解することにとても役に立った。
以前、ブログに「どうやってエネルギーを認識するのか」という記事を書いたが、
「なぜ」エネルギーを認識する必要があるのか?
という大きなヒントが見つかったと共に、
ステートオブプレゼンスが腑に落ちた。

自分が肉体の外にいる感覚がある。
自分の肉体を超えたところから自分を認識している。
しかも、それがよく言われているような「抜けている。」のではなく、
肉体にいる以上に非常にしっかりとしたエネルギーでここにいる。

ステートオブプレゼンスの状態が楽しくなり、
とにかくそこにいる。
anadiに「SPと恋に落ちなさい。」と言われたが、
この状態を味わうと、この状態に戻らずにはいられなくなる。

集中し続けると、頭の中がひっくりかえるような感覚になり、
裏ものもが表に出るように感じる。
すると、肉体の感覚が消え、
果てしないものと一体になり、無限に広がっていく。

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最終日に近づき、自分が肉体をもった存在である認識よりも、
自分がその肉体を超えたエネルギー体であるという感覚のほうのパーセンテージのほうが増している。

しかし、その様な状態にありながらも、
どこかから、得体のしれない焦燥感や無力感がこみ上げてくる。
それはどこから来るものなのか。
あと数日でリトリートが終わってしまうことなのか。
果てしないものに対する自分の無力感なのか。
ずっと、求めていたことがここまでなのか。
(と言っても素晴らしい体験を沢山したのだが、私の中では「何か」が欠けているように感じた。)
どこかで絶望にも似た何かを味わっていた。

本当は、素晴らしい体験は、まるで北京のビルのように表面的なきらびやかさで、
でも、本質には辿り着いていない事にもどこかで気づいていた。
そのことに一番絶望していたのだ。


その時も、恩寵の充ち溢れる中、
いつものようにステートオブプレゼンスの結晶化を意識し、
そこに寛いで身体の感覚が無くなっていた。
しかし、圧倒的な絶望感の前に
リトリートに対する期待も無くなっていた。


突然、予測の出来ない事が起きた。
(そう、私の求めていたのは「予想外」の事なのだ。)
まるでスペースシャトルが発射したかのような爆発と衝撃と共に、
自分がどこにいるかわからなくなる。

その状態は、それからずっと言葉を探しているけれども、
たとえる言葉が見つからない。
ただ、言えることは味わったとこのない世界。
言葉でどうしても説明できない世界。

だって、「何もない。」のだから。

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その中で、
どの位経ったのかも わからないけれども、
瞑想の終わりを告げる鐘の音がほんの微かに聞こえてきて、
戻らなくてはならない という意識がどこかに聞こえてくる。
戻る事に抵抗する何かがあるのだけれども、
すでに電柱ほどの太さの銀色に光る弾力あるコードを伝わって引っ張る何かがある。
なんと立派なコードだろう!
と感動する私。
この物質界にはない感触。
ちょっと光る大蛇みたいだなぁ。 と思いながら、
肉体の場に辿り着く。

今のは「何だったのだろう?」と暫く放心状態が続く。

その状態は、東京に帰ってきてからも続いていた。
(直帰。
東京に帰ってきたことを家族以外に内緒にしてひきこもってずっと座っていた。
「帰りに香港に寄って美味しいものと買い物だ。」と思っていた私はどこへ?)

喋りたくもなく、何もしたくなく、ただそこにありたいだけだった。

私は、遠隔ヒーリングの時に肉体を離れたり、たまに違う場所の様子を見に行ったりと、
幽体離脱のようなことはしているのだけれども、
全くの別物だった。


何もなかった。
『死』
という言葉が一番近いのかもしれない。

私は、おそらく何かを期待して生きていたのだろう。
思考の部分を使えば
おそらく、全能の神が「待っていたよ。」と両手を広げて私を迎えてくれるような。
ハリーウィンストンの宝石や魔法の王国が待っているような、
小さいころに絵本で見たような世界を。

しかし、それは
期待どおりでもなく、思考の対象になるものでもなかった。

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『死』
という言葉が本当に染み入ってきたのは、
実は帰国後、ある人に会ってからだ。

なんだか、日本のエネルギーに馴染めない。
と、なるべく家から出ない日々が続き、
とにかく、座っていれば幸せなのだから、
今までの私の生活とは一変した。

買い物にも、食事にも食指を動かされず、
セッション以外は、とにかく座る。
だんだん、お化粧もしなくなり、
「すっぴんですか?」とクライアントの方々にご指摘を受ける。

数日後、数年前に来てくれていたクライアントの方から久しぶりにメールをいただいた。
彼女は、当初催眠療法に来てくれていて、
しばらくして、お妹さんがヒーリングクリニックのほうに来てくれた。
久しぶりのメールは、妹さんが余命がわずかで、
二人で話しているときに、私の話が出て
会いたくなった。
というものだった。
その週末、彼女たちに会いに行った。
久しぶりに見るお妹さんは、私が覚えている彼女とは別人のようになっていたけれども、
具合が悪い中でも、彼女の持つ飄々としたところはそのままで、
本当に懐かしく、たくさんお喋りをした。
ずっと握っている手は、とっても暖かく数年前よりも滑らかに感じられた。
その中で、彼女は「いかに残された時間が、どんどん過ぎてしまうか。」 を憂いていた。
私はただ、手を握り聞いていた。
ふと、彼女の周りに意識を持っていくと、
彼女の上に恩寵のエネルギーが広がっている。
それは本当に素晴らしく。
インドで感じた「そこ」に繋がっていた。
「ねえ、ちょっと目を閉じてみて。」
と彼女がそのエネルギーを感じられるように、導いていった。
恐らく、瞑想をしたことはないと思うのだが、
とってもすんなりとその中に入って行き、恐らく1時間以上そうしていた。
「どう?」と聞くと、
「何も考えないでいられて、穏やか。」と言っていた。
顔を見ていると、だんだんと観音様のように穏やかで神々しくなっていく。
すると、ぽつぽつと少し前に彼女が体験した臨死体験のことを話してくれた。
それは、
「自分から物凄くまぶしい光がパーッと外に向かって発光して、
これは何だろう?
と思っていると、次に今までの人生が走馬灯のように繰り広げられ、
それは、自分で覚えていないことまで次々と見せられて、
反省させられた。
「あぁ、これで死ぬのかもしれない。」と思った瞬間、
紫色の光に包まれて、身体に引き戻された。」
そうなのだ。
彼女は、その話は不思議なものでも何でもなく、
まるで日常の中の一部分のようにたんたんと話していた。

次の日も、どうしても彼女に会いたくなって、
会いに行った。
顔を出すと、「あっ 来てくれたんですか?」と少しはにかんだ表情が今でも忘れられない。
その日も、大部分の時間彼女の上にある恩寵と繋がりながら過ごした。
翌日は、遠くの病院に転院しなければならず、
もしかして彼女に会えるのはこれで最後になるかもしれないと思うと、
本当に立ち去りがたく、最後の時をともに過ごさせてもらえたことに本当に感謝した。
彼女の頬の感覚はまだ私の頬に残っている。

その時間は、私にとっても恩寵と繋がるとても素敵な時間だった。
マスターとの時間も素晴らしかったけれども、
私に「これ」を示し、意味するものを教えてくれたのは彼女だった。

ある晩、眠る前に「そこ」に身をおいていると、
素晴らしく高貴なエネルギーが私を取り巻いた。
あまりの事に時がたつのもわからなくなった。
その後、その晩に彼女がなくなったとお姉さまから連絡をいただいた。
彼女の魂の質感は、あまりに高貴で愛に溢れていた。
私は、自分が彼女をサポートできたらと思い、
彼女の元へ行ったけれども、
実はサポートされていたのは私のほうだった。
彼女の神聖なる魂は多くのことを私たちに教えてくれた。

『死』はけして恐れるものではなく、私たちが戻っていくところなのだ。

(Jさんのご家族のご好意により、この経験をシェアさせていただきました。)

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一方で、ステートオブプレゼンスと脳との関係がとても私の興味を引いた。
anadiが面接の際に脳へのアプローチをしてくれたが、
それ自体は洗練されたものではなかったけれども、どの部分にアプローチしていたのかを
自分のステートオブプレゼンスをする際に、
どの部分が活性化していくかを踏まえて、
探っていった。


インドへ行く少し前に、次女が「この本面白いから。」と、
世界史のレポートのために使った本を貸してくれた。
システィーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画の本だった。




『ルネサンスの巨匠ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の天井画。もっとも有名な歴史的傑作のひとつであるこのフレスコ画を見るために、世界中から人々が集まり、圧倒的な美に息をのむ。だが、キリスト教世界でもっとも神聖であるともいえるヴァティカンにあり、教皇の命によって描かれたものにもかかわらず、そこには新約聖書の人物がひとりも描かれていない。その謎を解くカギは、ミケランジェロが傾倒していた新プラトン主義、ユダヤ教やその神秘的な教義にあった。全面的な洗浄によって元の輝きを取り戻したこのフレスコ画を詳しく眺めると、ミケランジェロが眼力を持つものだけに伝えようとした、しかし、なんとしても隠さなければならなかった禁断のメッセージが見えてくる。500年後のいま明かされたその秘密とは…。巨匠の遺した秘密が500年後のいま明かされる。図版120点以上。(AMAZONBOOKデータベースより)』

とても面白くインドに持って行きたいくらいだったけれども、
重いので断念し、家に帰ってきてから再読しはじめた。

ミケランジェロの天井画の「アダムの創造」は、とても有名な作品だけれども、
cnnでも話題になったように、
その作品には「脳」の断面図が「神」の体を使って描かれている。
アダムの指と神の指が触れ合い、神の身体に繋がるところは、
脳へのアプローチの際にエネルギーが通っていく道と関連しているように思える。

また、
脳梗塞を起こした脳神経外科医の体験記を読んでいても、
脳と神聖なるものとの関連性は非常に興味を引く。
(この場合、右脳と左脳という切り口だったけれども。)


そのほかにも、チベットの僧侶やカソリックの修道女が瞑想している際の脳の状態などもいくつか研究されている。

脳は、私たち人間の技術がこれだけ発展してきても、
まだまだ解明できない部分が多くのこる臓器だ。
しかも、私たちは一人ひとりその機能を自らの身体の中に持っているのにもかかわらず。
未開の地なのだ。

自らの中にある神聖を見つけるときに、
脳へのアプローチは非常に大切なポイントとなっていくように思える。
脳へのヒーリングも非常に有効に思えるが、
その際には、より精密にエネルギーを流し分ける必要があると同時に、
より繊細に働きかけなければ、頭痛などの症状が出ることもあるので注意が必要になる。
また、施術者がその「状態」を自らが体現していることも大きなポイントとなるように思う。

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